「ドブの中の自然 ー都市の生態系を考える」三島次郎
という本を読んだ。実際に読んだのはその冒頭のみだが、最近自分の中でモヤモヤとしていた自然への考えが非常にスッキリとしたので、概略と感想を書いてみようと思う。~概略~
近年の自然への関心の高まりから、ビオトープを始めとした「自然の創生」が都会の随所で見ることができるようになった。多くはよく管理された、見た目も美しい人工的造成地である。しかし、それは本当に「自然」なのか、著者は都会のドブの生態系を引き合いに出して反論している。都会には都会の、管理しなくても出来上がっている自然があるのである。ドブ、と聞くと、そこに自然があると言われても想像できない人のほうが多いだろう。しかし実際にはアカムシやバクテリア、ギシギシのようなドブを生活の場とする生き物が息づき、ドブにあふれる豊富な栄養分を利用している。すなわち、ドブ自体は強力な自浄作用を持っているのである。見た目が悪いから、臭いからといってそのような生き物を取り払ったり、消毒などをすれば自浄作用は失われ、環境はさらに悪化する。このように、一見「自然」のない都会にも、実は自然の営みは隠れているのである。そして多くの人々はそれに気づかないでいる。
一方、その都会への「自然の創生」は近年積極的に行われている。ビオトープに代表されるそれらの「自然」は、管理されることを前提としている。管理しなければ雑草に溢れ、木々は旺盛し、美観を損なう。ゆえに、手間と予算をかけて維持しなければならない。しかし、それは自然といえるのだろうか。“管理しなければ保てない自然は自然ではない”のである。
都市緑化において叫ばれている「自然の創生」は、決して自然を創りだしているわけではない。それはあくまで人間にとって都合の良い「美観」を持った人工造成地である。その「美観」は人間による主観的な視点であり、時代や国々によって異なる。決して、緑地を作ることに反対するわけではない。その行為があたかも「自然を創生」し、自然と調和していると考えることの誤りを意識しなければならないのである。
“都会には都会の生態系がある。”その生態系は人間の関係しないところで勝手に進んでいるものだ。それはドブや雑草、枯れ葉のように見た目は悪いものかもしれないが、それらも含めて自然の営みである。庭園や公園などの緑地は捉え方を変えれば人間にとって都合の良い生物のみを選び、他を排除した場所である。それが真の自然ではないということは明らかだ。我々はそれを意識した上で、自然の営みと日々の生活を調和させ、都会の生態系と共存しなければならない。
以上が、この「ドブの中の自然」をまとめたものだ。文章自体は自分の提出したレポートをそのまま使ってしまった(それっていいのだろうか?)
それを踏まえて、自分が最近里山について調べてみて、この考えから思うことがこうだ。
~感想~
思うに、現代日本ではその身近な自然を受けいれず、管理された「自然」を自然だと思い込んでしまうことによる弊害が多いのではないだろうか。近年よくニュースに上がる、「川にコイを放流した」「展望台からの見晴らしを良くするために木を切ってツツジを植えた」などの事例は元々の自然を破壊しているのにもかかわらず、それを担う人々、主に定年退職後の方々が多いのだが、あくまで「昔の自然の風景を取り戻している」と考えているところが多い。
例:季節の花々咲く 忍性記念・極楽寺公園
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宝篋山に出来た溜池。なぜか錦鯉が放される。この場所は去年までホタルが飛び交うところで、堰き止められた沢の脇にはオオムラサキの幼虫がいたエノキが生えていた。 |
一見して「美観」の良いものだから、という理由で自然に対して手を加えてしまうのは誤りだ。それはあくまで人工的な、主観の入ったものだと意識し、本来の自然と分けて共存させるべきではないだろうか。
人々の利用という点で人口緑地は決して間違っているわけではないだろう。人口緑地を作る一方で、一区画には元々の自然を残した「放っておく」場所も作るべきである。人工緑地を気持ちよく利用する一方で、一画に残る自然の営みを理解できるようになること大切だ。
・・・と、たかだか22歳の大学生が言ってみる。
しかし、現実の所上記に上がったようなコイが実は外来種で、自然に大きなインパクトを与えるということはあまり知られていない。
人と自然が接する場所、里山や都市の緑地のような環境では必ず人為が生じる。それに対してどう向き合っていくのか、拒絶ではなく共生していくことが求められる。しかし、その考えは一部の生物好きに留められているだけだ。
果たしてどうすれば一般の理解が得ることができるのだろうか...永遠の課題のように感じてしまう。
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